September 1, 2010
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September 1, 2010

August 26, 2010
"一つの現象には、 無限の解釈の扉が開かれている。  どの解釈を選び出すかは心が決定する。  自分の外に幸せを探しても 見つかることはない。  もし、見つかったとしたら それは錯覚だ。  豊かで満ち足りた人生は 心の探求によってのみ現実となる。  なぜならば、 幸せとは 心の状態なのだから。 "

e28 ラオス ルアンパパン2 認識するものと認識されるもの 幸せになる方法 日本仏教サンガ 密教瞑想法の伝授会 仏教講座

August 23, 2010
"太古の昔から雪を被り続けている山々が、 犯しがたい崇高さをもって、 そこにそびえたっていた。  峻厳な山岳に降り積もった粉雪が、 風に吹き飛ばされていくのが見える。  圧倒的な威容。  厳しいまでの美しさ。  私は、思わず手を合わせていた。  この神々しい山々が、 どの神仏の垂迹であるかは、 問題にならない。  山々は、 絶対的真理の一つの現れとして、 そこに在った。  人間の力を遙かに超えたものとして、 そこに在った。  偉大な存在に出会うことができたならば、 ちっぽけなことから生じた自尊心など 惜しげもなく投げ捨てて 心からひれ伏すべきだ。  普通の人間が百年で得られるものなど、 たかが知れている。  相対的な努力をいくらしても、 絶対的なものは得られない。  たとえ人の寿命が二百年に伸びたとしても、 あの山々には遠く及ばないだろう。"

e26 ポカラからカトマンズへ マウントフライト ヒマラヤの威容 日本仏教サンガ 密教瞑想法の伝授会 仏教講座

August 8, 2010

一切の私心を捨て、天下のために生きる 龍馬伝

August 6, 2010
様子を眺めず「そのまま」

坐を眺めていますと、坐に落ち着くことは出来ません。


では、どのようにすれば良いか、です。

よく「相手にせず、邪魔にせず」といいます。

「色々な事=念」を「相手にせず、邪魔にせず」です。

別の言い方をすれば、何度も申し上げていますように禅修行は「そのもの」になるです。

ですから、坐禅も「そのもの」になるです。

先に書きましたように、

「数息観・随息観」で「意識を集中させる」ことは、結果的に坐を構えてしまうことになり、

このことが坐の様子を眺めたりする新たに縁を作り出し「よく坐れた、今日はダメだ」に流れます。

これでは坐「そのもの」になれていません。

そこで「相手にせず、邪魔にせず」です。

別の言い方で「そのまま」。

「色々な事=念」が出て来ましたら「相手にせず、邪魔にせず」。

「色々な事=念」が出て来ましたら「そのまま」。

「色々な事=念」のままに、です。

すなわち「妄想三昧、雑念三昧、考え三昧」ということです。

「色々な事=念」を眺めずに「色々な事=念」のまま。

次から次へと「色々な事=念」が出て来ますから、出て来たまま。

そして、次から次へと消えていきますから、消えたまま。

何の遠慮も気兼ねもなく「色々な事=念」ままに、です。

くどいですが、何の遠慮も気兼ねもなく「色々な事=念」ままにと眺めずに、何の遠慮も気兼ねもなく

「色々な事=念」ままに、です。

ですが「随息観」で困ったことがあります。

坐禅中に出て来る「色々な事=念」を【雑念】だ、とする指導者がいるのです。

【雑念】で悪だから、切り捨てよ、とまで言います。

坐禅中に頭の中に出て来る「色々な事=念」は、自己を認めた過去の業から出て来た【雑念】である

から、出て来た「色々な事=念」は悪でだから【雑念】として、吐く息吸う息に集中することにより切り捨てよ。

すると【雑念】のない坐が出来るようになり、結果「楽」になると言います。

「身心一如」になって「楽」になると指導しています。

これは間違いです。

「色々な事=念」に【雑念・正念】はありません。

ましてや「楽」になったら、それが縁で新たに「楽でない=苦痛」が出て来てしまいます。

それでは「楽」「楽でない=苦痛」になった「事」が残り、何時までも眺めてしまうことです。

禅修行では【様子】例えば、「楽になる、居心地がよい、着眼、理屈の入る余地のない即今底、純粋」とかを目標にした修行はダメです。

それは、そのような【様子】を「自分が作り出している」からです。

「自分が作り出している」ことですから、それが縁になって「自分が作り出している」ことに振り回されることになり、永遠に「自分」の世界から離れる事が出来なくなります。

しかし、その指導者は「一度には純粋になれないから、こつこつと階段【様子】を上るような煩悩と戦う修行をするしかない」。

「だから【雑念】や煩悩を吐く息吸う息で切り捨てていくのだ」と言います。

そして【雑念】煩悩の何にも無い平等智に生まれ出ると「楽」になると言い、それが悟りだと言います。

その後、後悟の修行で悟った「楽」を練り切っていく、と言います。


本来、何も認める事が出来ない有り様に「自分が作り出している」【様子】を認め「自分が作り出している」【雑念】煩悩の何にも無い平等智を認め、その「自分が作り出している」「楽」を練り切っていく為の「自分が作り出している」後悟の修行をすることになります。

これでは「自分が作り出している禅修行のような随息観」をしているする「自分」が、生涯残り続けることになってしまいます。

禅修行は神秀の
「身はこれ菩提樹 心は明鏡台の如し 時時に勤めて佛拭し 塵埃を有らしめること莫れ」

のように、とまで言い出します。

その指導者が二元相対世界にいますから、それを聞く二元相対世界の参禅者には「自分が作り出している禅修行のような随息観」が分かりやすいという困ったことにもなります。

何度も申し上げていますが「真っ暗闇をまっしぐら」です。

禅修行に【様子】はありません。

禅修行では【様子】なぞを眺めてはなりません。

脇目も振らず「そのまま」です。

ですから「色々な事=念」のまま。

「妄想三昧、雑念三昧、考え三昧」。

「色々な事=念」を眺めずに「色々な事=念」まま。

次から次へと「色々な事=念」が出て来たまま。

次から次へと消えていくまま。

眺めることが無くなりますと「色々な事=念」も収まってきます。

くどいですが、脇目も振らず「真っ暗闇をまっしぐら」。

August 5, 2010

動中の工夫は静中の工夫に勝ること一千億倍す

August 5, 2010

自由とは、好き勝手ができることではない。自由とは、最高の夢を叶える努力を妨げるものが何一つないことである。

August 4, 2010
海は満ちていく。  インド洋と太平洋と大西洋の三つの大海が、 ここで一つになっている。 一つなっているとはいうが、 海はもともと一つだ。  ちがいは人間が、名付けたために生じたに過ぎない。  一切の存在が、 名付けの力によって分離し、 そこに憂いと悲しみが生じる。  観察するものと、 観察されるものが 同一であることが体験される時、 一切の存在は もともと一つであることが 真に理解される。

August 2, 2010

参師聞法

坐禅功夫

戒法護持

July 31, 2010

証道歌

永嘉大師証道歌

君、見ずや、絶学無為(ぜつがくむい)の閑道人 妄想を除かず真を求めず

無明の実性は即仏性 幻化の空身は即法身(ほっしん)

法身を覚了すれば無一物 本源自性は天真仏

五陰(ごおん)の浮き雲は空に去来す 三毒の水泡は虚しく出没す

実相を証すれば人法なく 刹那に滅却す、阿鼻(あび)の業

もし妄語をもって衆生を誑(たぶら)かせば 自ら招く、抜舌(ばつぜつ)の塵沙劫(じんじゃごう)

頓に如来禅を覚了すれば 六度万行(ろくどまんぎょう)は体中に円かなり

夢裏(むり)、明明として六趣(ろくしゅ)あり 覚めて後、空空として大千(だいせん)もなし

罪福も無く損益も無し 寂滅性中に問覓(もんべき)するなかれ

比来(ひらい)、塵鏡は未だかって磨せず 今日、分明(ふんみょう)に須く剖析(ほうせき)すべし

誰か無念、誰か無生なる もし実に無生なら、不生も無し

機関木人(きかんぼくじん)を喚取(かんしゅ)して問え 仏を求め功を施せば早晩(そうばん)か成ぜん

四大(しだい)を放って、把捉すること莫れ 寂滅性中、飲啄(おんたく)するに随え

諸行は無常にして一切空なり 即ちこれ如来の大円覚なり


永嘉玄覚(ようか・げんかく。六七五~七一三)禅師は、六祖慧能(ろくそ・えのう)大師の法嗣であり、証道歌(しょうどうか)の作者として知られている。

永嘉禅師は、浙江省・温州府・永嘉県の人で、姓は戴(たい)氏、字(あざな)は明道、諱(いみな)は烈という。漢末の祖、侃(かん)公・第五燕公の九代の孫で、長江を渡り永嘉の人となった。

幼年に出家して、あまねく三蔵(さんぞう。経と律と論)を探り、天台止観(しかん)の法門に精通し、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)つねに禅定を離れなかった。

のちに、左谿山に隠棲した天台宗第八祖の左谿玄朗(さけい・げんろう)禅師に激励されて、東陽玄策禅師とともに曹渓に六祖大師を尋ねた。初めて六祖に相見したとき玄覚は、錫杖をふるい瓶(へい。水入れ)を携えて六祖の回りを三回まわり、卓然(たくぜん。スックと)として立った。

六祖大師が言った。

「それ沙門(しゃもん。仏道修行者)は、三千の威儀、八万の細行を具す。大徳、いずれの所より来たり、大我慢(だいがまん。慢心)を生ずるや」

「生死事大(しょうじじだい)、無常迅速(むじょうじんそく)なり」

「何ぞ、無生を体取し、無速を了ぜざる」

「体すれば即ち無生、了ずればもと無速なり」

「如是。如是(にょぜ。その通り)」

六祖のこの言葉を聞いた大衆(だいしゅ)は、みな愕然(がくぜん)とした。玄覚は、威儀を具して参礼し、すぐに辞去することを告げた。六祖が言った。

「返ること、はなはだ速き」

「本より自ら動ずるにあらず。豈(あ)に速きこと有らん」

「誰か動にあらずと知る」

「仁者(にんじゃ。あなた)、自ら分別を生ず」

「汝、はなはだ無生の意を得たり」

「無生、豈に意あらんや」

「意無くんば誰かまさに分別すべき」

「分別もまた意にあらず」

六祖は嘆じて言った。

「善哉。善哉(ぜんざい。善きかな)。少しく留まること一宿せよ」

こうして玄覚は翌日山を下り、一宿して六祖の法を嗣いだので、一宿覚(いっしゅくかく)と呼ばれるようになった。同行した玄策はそのまま曹渓に留まった。

玄覚禅師は温州へ帰って法を挙揚し、法席には多くの学人が集まった。彼は真覚(しんかく)大師と号したが、永嘉県で生まれ永嘉県で法を挙揚したので、一般には永嘉玄覚禅師と呼ばれている。

証道歌のほかにも、禅宗の悟りや修行の要旨を、浅きから深きまで多くの著作でもって書き残した。慶州の刺史(しし。役人の職名)魏靖(ぎせい)が、それらを集めて十編にまとめ、序を付け永嘉集と名づけて刊行し、世に盛んに行われた。

永嘉玄覚禅師は、七一三年十月十七日に、安坐して滅を示し、十一月十三日に、西山の陽(よう。山の南側)に塔を作った。春秋四十九、勅して無相大師と諡し、塔を浄光という。

宋の淳化年間に、太宗皇帝が本州に詔(しょう。命じる)して、重ねて龕塔(がんとう)を修理した。

歴史上、最短で印可証明を受けた人である。
参考書に永嘉大師証道歌提唱. 飯田トウ隠などがある。

July 31, 2010

臨済録 (抄)

「今日はわしの本意ではないが、やむを得ず世間のならわしに従って説法することにした。
しかし禅の正統的立場から言えば、禅はまったく一言半句の説くべきものもない。
だからお前たちの思索の足掛かりも無いのだ。しかし今日だけは常侍の強い要請にこたえ、
思い切って禅の本領を示すつもりだ。誰か腕に覚えのある者は無いか、もし居れば旗鼓堂々
一戦を挑んで来い、大衆の前ではっきり勝負しよう。」



「祖仏は今わしの面前で説法を聴いているお前こそがそれだ」



「赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝ら諸人の面門より出入す。
未だ証拠せざるものは看よ!看よ!。」
(この生身の肉体上に、何の位もない一人の本当の人間、すなわち「真人」がいる。
いつでもどこでも、お前たちの眼や耳や鼻などの全感覚器官を出たり入ったりしている。
いまだこの真人がわからないものは、はっきり見届けよ)





經論家に拠らば、三種の身を取って極則と爲す。
山僧が見處に約すれば、然らず。
此の三種の身は是れ名言にして、亦た是れ三種の依なり。
古人云く、身は義に依って立て、土は体に拠って論ずと。
法性の身、法性の土、明かに知んぬ、是れ光影なることを。
大徳、爾且らく光影を弄する底の人を識取せよ。
是れ諸佛之本源にして、一切處是れ道流が帰舍の處なり。
經論家に拠らば、三種の身を取って極則と爲す。
山僧が見處に約すれば、然らず。
此の三種の身は是れ名言にして、亦た是れ三種の依なり。
古人云く、身は義に依って立て、土は体に拠って論ずと。
法性の身、法性の土、明かに知んぬ、是れ光影なることを。
大徳、爾且らく光影を弄する底の人を識取せよ。
是れ諸佛之本源にして、一切處是れ道流が帰舍の處なり。

「経論家(教相家)によれば、三種の仏身(法身仏、報身仏、化身仏)は
仏法の究極のものとされる。しかし、わしの見処からすれば、そうではない。
この三身は(無相の自己の働きに依って)仮りに方便として名を付けたものであり、
(無相の自己が)相に応じて着ける三種の衣服なのである。
古人も言っている。
『仏身の区別は、教理上のこと、(衆生済度の為、相に応じてそれぞれ立てたもの)
仏身の住まう国土は、それぞれの仏身の境涯に応じて形成されるによう設定したのだ。』

法性の仏身(阿弥陀仏)、法性の仏国土(極楽浄土)が、
(無相の自己の)智慧の光りで出来た影(影法師)のようなものだとわかるだろう。

修行者達よ。お前達はぜひとも影(影法師)を操っている当の本体(主人公)をハッキリと看て取れ。
それそこ諸仏の本源であり、すべての修行者の安住できる本来の家郷なのだ。」



是れ爾が四大色身は、説法聽法する解わず。
脾胃肝膽は、説法聽法する解わず。
虚空は説法聽法する解わず。是れ什麼ものか説法聽法を解くす。
是れ爾目前歴歴底にして、一箇の形段勿して孤明なる、
是れ這箇、説法聽法を解くす。
若し是の如く見得せば、便ち祖佛と別ならず。
但そ一切時中、更に間斷莫く、觸目皆な是なり。
祇だ情生ずれば智隔たり、想変ずれば體殊なるが為に、
所以に三界に輪回して、種種の苦を受く。
若し山僧が見處に約せば、甚深ならざるは無く、解脱せざるは無し。

「お前達の肉体が法を説いたり聴いたりするのではない。
五臓六腑が法を説いたり聴いたりするのではない。
虚空が法を説いたり聴いたりするのではない。
では一体、何ものが法を説いたり聴いたりするのか。
ほかならぬお前達、わしの面前にハッキリと存在し、
これという形態なしに独自の輝きを発しているそのもの
それこそが法を説いたり聴いたりできるのだ。
このように看て取れたら、祖仏と同じである。
およそ十二時中、間断なく、見るもの聞くもの、みな一枚の仏性(真実の自己)である。
ただ情念が起こると般若の智慧と隔たり、想念が変異すれば仏心と違ってくるから、
三界に輪廻して、様々な苦を受けることになる。
しかし、わしの見処から言えば、甚深微妙不可思議でないものはなく、
解脱していないものはないのだ。」




「修行者達よ、心法(即今目前聴法底)は形がなく、十方世界に通貫している。
眼では見るといい、耳では聴くといい、鼻では香を嗅ぎ、
口では談論し、手では掴み、足では歩き走る。
もともと一心であり、分かれて六通の感覚器官を通して働くのだ。
一心は既に無であるから、徹底すれば随所に解脱する。

わしがこのように説く意図が何処にあるか。
お前達が一切の馳せ求める心を止めることが出来ない上、
古人の詰まらぬ言句や行動にすがりついているからだ。

修行者達よ。わしの見処に立てば、報身仏・化身仏の頭に坐って尻に敷き、
十地の修行成就者もまるで下賤な者、等覚・妙覚の悟りを得た者も自由を束縛された囚人、
羅漢、僻支仏(小乗の聖者)も汚猥であり、菩提・涅槃も驢馬を繋ぐ汚い棒杭だ。

何故そのようになるのか。
お前達が三祇劫(菩薩修行の無限の時間)が空であると達観しないから、
このような障碍があるのである。もし真正の道人ならば絶対にそんな事にならない。
ひたすら、その時その時、縁に随って過去の業を消し、自由に衣服を着けて、
行こうと思えばすぐに行き、坐ろうと思えばすぐに坐る。
一瞬たりとも、仏果(果報・悟り)を願い求める心を起こさない。
何故そうなのか宝誌和尚が言っておる。
『もし計らいの心を起こし仏を求めたら、その求める仏は迷いの大兆(象徴)である。』と。」




大徳、時光惜しむべし。
祇だ傍家波波地に、禪を學し道を學し、名を認め句を認め、
佛を求め祖を求め、善知識を求めて意度せんと擬す。
錯まること莫れ、道流。爾祇だ一箇の父母有り、
更に何物をか求めん。爾自ら返照して看よ。
古人云く、演若達多頭を失却す。求心歇む處即ち無事、と。
大徳、且く平常ならんことを要す、模樣を作すこと莫れ。
一般の好惡を識らざる禿奴有って、便即ち神を見鬼を見、
東を指し西を劃し、晴を好み雨を好む。
是之如きの流、盡く須らく債を抵して、
閻老の前に向って、熱鐵丸を呑むこと日有るべし。
好人家の男女、這の一般の野狐の精魅の所著を被って、便即ち捏怪す。
瞎屡生、飯錢を索るる日有ること在らん。

「お前達、時は惜まねばならぬ。
それだのに、お前達は(自身の仏を見失い)あたふたと、禅を学び、道を学ぼうとし、
立派な経論や言句を当てにし、仏を求め祖を求め、師家を求め憶見を加えようとする。
誤ってはならぬぞ、修行者達よ。
お前達には、まさしく一箇の父母(本源、本来の面目)がある。
このうえ何を求めようというのか。
お前達、自らに取って返して自己自身を照らして看よ。(回向返照)
古人は言う『(演若達多の故事を引き)求める心が止んだ所が即ち無事なのだ。』と。

お前達、ともかく平常(びょうじょう)であれ。あれこれと思慮分別して臆見を加えるな。
世間には正邪もつかぬ悪僧の手合いが居て、何かと神や幽霊を見ただの、また東や西を指して方位を占ったり、『晴れだ。雨だ。』と天気を予言したりする。
この手の連中は必ず借りを返させられて、閻魔大王の前で、熱い鉄の玉を呑まされる日が来るであろう。
ところが、善男善女が、こんな一群の狐狸の手合いに惑わされて、すぐに狐つきになり怪しい振る舞いを遣らかす。
愚か者め。閻魔大王に、無駄飯を喰った飯代を請求される日があろうぞ。」

July 31, 2010

中峰和尚座右の銘(ちゅうほうおしょうざゆうのめい)

末世の比丘沙門に似て心に慙愧なく

身に法衣を着けて思い俗人に染む

口に経典を誦して心に貪欲を思い

昼は名利に耽り夜は愛着に酔う

外持戒を表して内密犯をなす

常に世路を営んで永く出離を忘ず

偏に妄想を執して既に正智をなげうつ


一つには道心堅固にして須く見性を要すべし

二つには話頭を疑着して生鉄を噛むが如くせよ

三つには長座布団脇席につくる事なかれ

四つには仏祖の語を見て常に自ら慙愧せよ

五つには戒体清浄にして心身を穢すことなかれ

六つには威儀寂静にして暴乱をほしいままにすることなかれ

七つには小語低声戯声を好むことなかれ

八つには人の信ずるなしといえども人の謗りを受くることなかれ

九つには常に苕箒ジョウシュウ(ほうき)を携えて堂舎の塵を払え

十には道行倦むことのうして飽くまで飲食することなかれ


生死事大光陰惜しむべし時人を待たず

人身受け難し今既に受く仏法聞き難し今既に聞く

この身今生に向かって度せずんば更に何れの所に向かってかこの身を度せん

中峰和尚座右の銘


※中峰和尚=
中峰明本(ちゅうほう みょうほん、1263年 - 1323年8月14日)は、中国の元代の禅僧である。南岳懐譲下の第22世。字が中峰であり、幻住道人と号した。諡は智覚禅師。普応国師。臨済宗楊岐派の人。

【中峰和尚の生涯】
9歳で母と死別し、幼くして仏に帰心し、15歳で出家を志した。若くして『法華経』・『円覚経』・『金剛経』などの経典を読誦し、燃指供養を実践するなど、講学と修行につとめた。

至元23年(1286年)、天目山獅子巌の高峰原妙に師事して剃度し、至元25年(1288年)に具足戒を受けた。
金剛経の一節である「荷担如来」を聞いて得るものがあり、後に泉の流れるを見て大悟したという。
翌年には師の心印を伝授された。原妙の没した1295年に、師は明本に住寺の大覚寺を継がせようとしたが、明本は頑として受けず、第一座の僧に継がせて、自身は山を下りた。

大悟徹底してからは一所不住の日々を送り、幻住と号して質素脱俗の境涯を示し、その家風は本邦でも大いに慕われた。

その後、各地を遊方行脚して、修行と教化につとめた。定住処を持たず、「幻住庵」と名づけた庵を各地に造って、そこに仮寓した。また、時に天目山にも帰山したりした。

霊隠寺や径山から招かれても応じず、延祐5年(1318年)には、仁宗によって宮中に召されたが、応じなかった。それでも、金襴の袈裟を下賜され、「仏慈円照広慧禅師」の号、さらに「師子正宗寺」の院号を賜った。また、英宗からも尊崇され、顕貴の中にも、明本に師事した者が少なくない。趙孟頫とも交遊した。

1334年には、順帝が、『天目中峰和尚広録』30巻を入蔵させ、普応国師と加諡した。

中峰禅師がある所で庵を結ぶと、師の道風を慕って多くの学人が集まってきた。師はこれを拒んだが、いよいよ多くの学人が集まる。そこで師は半夜ひそかに庵を出てしまった。あまりの学人の多さに困って夜逃げをしたというのです。これも一度や二度ではなく、3年も一ヶ所に留まることがなかったのです。
中峰禅師のこのような生き方は、中央政府の外護する官寺に住持することを嫌い、政治の中心地である京都や鎌倉から離れて山間に草庵を結び、そこに住む庶民と共に坐禅を修めた禅僧たちは当時幻住派と呼ばれていました。

この中峰和尚座右の銘は現在でも広く専門道場で誦まれているが、これを以て如何に中峰和尚の道風が本邦で慕われたかを知ることが出来よう。



【中峰明本に参禅した日本人の入元僧】
古先印元(1295年 - 1374年)
遠渓祖雄(1286年 - 1344年)
復庵宗己(1280年 - 1358年)
無隠元晦(? - 1358年)
明叟斉哲(? - 1347年)
寂室元光
孤峰覚明

【著作】
『幻住庵清規』『一華五葉』『東語西語』 『天目中峰和尚広録』など。
wikipedia に付け足し


July 31, 2010

 エックハルトトール

あれこれ考えることがエゴである 21世紀のクリシュナムルティ

エックハルト・トールのプロフィールと悟りの体験

エックハルト・トール

エックハルトトール

1948年2月16日ドイツに生まれる。ある日突然覚醒体験をする。それが数ヶ月続く。

現在カナダB.C.のバンクーバー在住の現代のスピリチュアルな指導者。講演・著作活動。



エックハルト・トールの覚醒体験

30歳になるまで、不安やあせりに苦しみ,自殺も考えた。
二十九歳の時のある晩、夜中に目を覚ました彼は「絶望のどん底だ」という強烈な思いに襲われる。あらゆるものの存在が無意味に思われ、「この世のすべてを、呪ってやり たいほど」であった。自分自身こそが、もっとも無価値な存在のように感じられる。  「こんな悲惨な人生を歩むことに、いったい、なんの意味があるというのか? どうして、 これほど苦しみながら、生きていかなければならないのか?」

わたしの中にある「生きよう」という本能は、「もう存在したくない、いっそのこと消え てしまえたらいいのに」、という悲痛な願いに押しつぶされていたのです。わたしの頭の中 を、「こんな自分と生きていくなんて、まっぴらごめんだ!」という思いが、ぐるぐると回っていました。

すると突然妙なことに気づいたのです。
「自分はひとりなのか、それともふたりなのだろうか?」

こんな自分と生きていくのが嫌だとすると、『自分』と『自分が一緒に生きていきたくないもうひとりの自分』という、ふたりの自分が存在することになります。そこでわたしは自分に言い聞かせました。
「きっと、このうちのひとりが、『ほんとうの自分』なのだ」
この時、わたしは、頭の中でつぶやいていたひとり言が、ピタリとやんでしまうという奇妙な感覚に、ハッとしました。

わたしの意識はしっかりしていましたが、わたしの思考は「無」の状態でした。次の瞬間、 わたしは、まるで竜巻のような、すさまじいエネルギーのうずに引きよせられていきました。 それは、最初はゆっくりで、次第に速度を増していきました。わたしはわけがわからず、恐怖でガタガタと震えはじめました。

その時「抵抗してはなりません」というささやきが胸に飛びこんできたのです。すると、 なぜか、恐れは消え去りました。わたしが観念して、エネルギーのうず、「空(くう)」に身をゆだねると、わたしはみるみるうちに、その中に吸いこまれていきました。そのあと、 なにが起こったのかは、まるっきり記憶にないのです。

翌朝、小鳥のさえずりに、目を覚ましました。まるで生まれてはじめて聞くかのような、 美しいさえずりでした。目は閉じたままでしたが、脳裏のスクリーンに、さんぜんと輝くダ イアモンドのようなイメージが見えました。
「なるほど! ダイアモンドに声があるとするなら、きっとこんな声に違いない!」
わたしが目を開けると、力強い朝日が、カーテンを貫いて、わたしの部屋に降り注いでい ました。この時のわたしは、そのまばゆい光が「人間の英知をはるかに超えた、無限ななにか」であるということを、あたりまえのように知っていました。 「そうか、この暖かい光は、愛そのものなんだ!」

わたしの目には、涙があふれていました。寝床から飛び起き、部屋の中を歩き回りました。 ふだん見慣れているはずの部屋なのに、それまで、そのほんとうの姿を見ていなかったことに気づきました。目に映るすべてのものが新鮮で、生まれたばかりのようでした。手当たり次第に、そこら中のものを拾いあげてみました。えんぴつ、空っぽのビンなど、あらゆるも のに息づく生命と、その美しさに、ただただ驚くばかりなのです。

わたしは町へと飛びだしました。そして、「生命が存在する」という奇跡に感動しながら、町を歩き回りました。見るものすべてが新鮮で、わたしは自分が、赤ん坊にでもなったような気がしました。 
以上、『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』から



トールは、この体験後、「なにものにもゆらぐことのない、深い平和と幸福に包まれた日々を送った」と言う。5ヵ月後、至福感はやわらいだような気がするが、それはたんに 至福感に慣れただけなのかも知れないとも言っている。

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【著書・動画】
『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(飯田史彦教授翻訳—ただこの翻訳はすこぶる評判が悪い。翻訳者エゴで取捨選択して翻訳しているから)しかし読むに値する本であることは間違いない。なぜ坐禅をしないといけないかわからない人向け。

エックハルトトール『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』を読んで

監訳した飯田史彦が言っているように宗教、心理学、哲学などあらゆる分野の中で生み出された今現在最新の悟り方が書いてあります。

私は、世界教師のクリシュナムルティが好きですが、彼の言う事を本当にわかりやすく噛み砕いた本であり、カウンセリングやコーチングで言われる「今、ここ」を感じる方法がやさしく書いてあります。ゲシュタルトセラピーや論理情動行動療法(REBT)をやってる人のガイドブックにもなりえます。

ここまで書けるエックハルト トールって何者なのかさっぱりわかりませんが、かなりやるなコイツって感じです。

もしも離れ小島に島流しにされるなら、聖書やバガヴァッド・ギータや仏典などをあれこれもって行きたいが、荷物になってちょっと重い。そんな時は代わりにこの本を一冊持っていけばよさそうである。
もし世界の全ての人がこの本を読んだら地球は平和な理想郷になるであろう。

悩み苦しんでいる人、孤独な人、不安な人、目的が見つからない人、怒っている人などに特に読んで欲しい。読むと本当にラクになれる本。

この本に出会えてよかった。
私は感情や思考から離れることがなかなかできない性格で、不快な感情が起こればすぐに切りかえることはできず、また大きな問題がみえると、無用な不安や恐怖から逃れることができなかった。
正確に言うなら、感情や思考に執着している事実でさえしらない愚か者であった。

ただ、なんとなくこのままではいけないと思うところがあり、色々な自己啓発を読めども解決せず、良い本を探し求める日々であった。

しかし、今まで投稿された方々も言われるとうりタイトルがなんだかいかがわしいと思いつつも、この本を手に取ったのが、わが人生において、大きな転機になった。

読み進めるうちに、今までの考えと全くことなる考えに驚き、抵抗を感じることもあったが、最後まで読むころには説得されていた。今まで、宗教チックな話がでると抵抗感があり、バリバリの法学部の(愚かな)頭でもって否定しようとしてきた自分が、説得された。

この説得力があったおかげで、思考や感情に執着することから発生する苦しみからすぐには解放されなくても、実践を続けることができた。実践を続け、悟りの入り口にまで到達することができた。

今では、ほとんど不快な感情・恐怖を煽る思考をすることがない。たとえ、それらがでてきても瞬時のうちに消滅する。
もっとも、まだ入り口の段階なので、欲や疑いなどは多少あるけれども、革命といえるほど生活が充実している。

この本を買う人にとって大切なことは、この本の言っていることを実践することである。この本の内容を覚えたりする必要はあまりない。

言葉というのは曖昧なので、むしろ覚えてその内容に縛られすぎないようにする方がいいかもしれない。

大切なことは実践。言いかえれば、この本をきっかけにして経験すること。すぐに成功しないかもしれないけど、たえず実践し多くの経験をしようとすること。そうするとある時から、この本に書いてあることは当たり前だと分かるようになる。生活がとても充実したものに変わるようになる。

なお、この本には「今に在ること」を実践する方法があまり詳しく書かれていないので、その方法を知るために、またさらに納得するために、他の本も読んでみるといいかもしれない。



『ニュー・アース』吉田利子訳  全米580万部突破。彼の書はこれだけ読めば十分という人がいる(吉田利子さんは『神との対話』の翻訳をした人なので、こちらは翻訳としては信用ができそうである)。しかし、『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』も読んでみて言えるのは両書は性格が違うので、両方読まれたほうが良いということがわかった。

YouTubeにたくさんの動画がある。
http://www.youtube.com/watch?v=kLeBwnbt0eg&feature=related


瞑想とは何か エックハルト・トールは結構ジョークがうまい人で,この始まりでいきなり聴衆を2回笑わせています。ジョーク言ってから自分も笑うのが愛らしいです。
「瞑想を成功させるために、自分は今瞑想をしていると考えるそのことがまさに瞑想の障害になる」



エックハルト・トールのことば

エックハルト・トール氏のセミナー要点 Meeting Eckhart Tolle

引用元

3月13日 待ちに待ったエックハルト・トール氏の話がはじまりました。
以下にトール氏の講演の要旨を掲載しますが、氏の話を少しでも理解しやすくするために、氏の主張のポイントを書いておきたいと思います。

第一に、私たちの多くは「無意識」である。私たちは日常生活の雑多なことに追い回されていて、日常生活を超えたところにある深い「意識」の世界のことに気がついていない。

第二に、私たちは日常生活の中で過去や未来のことばかりに気がいってしまい、「今、ここで」生きることを忘れてしまっている。

第三に、過去や未来というのは幻想で、実際には「今」しか存在しないということ。過去と未来は「今」がの陰のようなもの。すべてのことはいつも「今」起こっているし、「過去」にも「未来」は何もおきていない。

第四に、私たちの頭を満たしている思考は物事の本当の姿を体験することを妨害している。

第五に、私たちはペインボディー(痛みの身体)[古い感情的な苦痛の集積]をもっており、これは常に痛みを引き寄せている。

第六に、私たちはエゴに支配されている。エゴはつねに、決めつけ、識別、ラベルはり、批判、非難、過去、未来に固執するなどをすることによってどんどん大きくなっている。

第七に、エゴが思考をつくりだし、ペインボディーをつくりだしている。

第八に、「今、ここで」生きることが一番パワフルな生き方。今、ここで生きることによって、意識、大宇宙の知性とつながることもできる。

第九に、エゴに支配されない生き方は、エゴに気づきエゴを見つめるだけでいい。そうするとエゴは消えていく。

それでは、講演の内容の要旨を紹介します。

• みなさん、今から数時間深く「今」の中に入っていきましょう。

• 私たちの思考というのは、時を越えた「意識」の領域にアクセスするためには使えないものです。

• 私たちの意識の領域というのは常に活動しています。

• この会場に来ているみなさんは「意識」の領域にアクセスした人たちです。

• あなたの人生は「比較的」重要なことに満ちています。家庭のこと、人間関係のこと、お金のこと、仕事のこと、勉強のことなどなど。

• そうした比較的重要なことについて、あなたは自分のストーリーをつくりあげています。要旨は「自分の生活に何かもっといいことが追加されれば、幸せになれる」というもの。

• しかし、いくら新しいものをあなたの生活に追加していっても、結局は満たされない気持ちになってしまう。頭の中はいつも、過去や未来のことでいっぱいになってしまう。

• あなたは日常的に様々な経験をしているが、経験はあなたの外側で起こっているのではなく、あなたの脳の中で起きています。

• お金、人間関係、仕事、家庭などはすべて、思考がつくりあげたものです。思考はいつも満足しません。つねにもっともっとといっています。

• そうした「比較的重要なこと」をこえて、もっと重要なことがあります。

• それはおおいなる意識に目覚めること。それがあなたの人生の目的でもあります。

• その人生の目的はあなたの生活状況がどうであれ、あなたがいまどこにいようと関係ありません(同じく重要です)。

• あなたの人生は過去でもなく未来でもないのです。あなたの人生は今ここなのです。

• あなたが人生で経験していることは、すべてあなたが思考(マインド)の中で経験していることなのです。それはあなたを一人にはしてくれません。いつも、「こうしなきゃ」「ああしなきゃ」「あんなことしなきゃよかった」「これはしちゃいけない」などなど。

• あなたの思考はあなたが就寝するまであなたに付きまといます。あなたが眠るとあなたの脳の中の思考はあなたを追いかけてこなくなります。

• 思考に付きまとわれている状況は、目覚めているとはいえません。

• 多くの人々は頭の中で知識を経験し、実際に自然そのものを経験していません。たとえば、子どもと森林などにいって、大人はいつも回りのものを言葉で説明しようとします。いいかえると、子どもたちに知識を経験させようとしています。子どもは本当は自ら触って、見て、聞いて、感じて、経験したいのに。だから、私たちはもっと子どもたちが自然を直接体験できるように配慮しなければならない。いっぱい自然そのものを体験してから、「実はこの花は〇〇というんだって」と付け加えたほうがよほどいいのです。

• いまここにいるみなさんは、そうした思考を超えたところに行こうとしています。

• 今、あなたがこの私の話を聴いてにこやかに笑えるようだったらあなたは目覚めています。逆に私の話を聴いて腹を立てたり不快な気持ちになったら、あなたはまだ目覚めていません。

• 目覚めのはじまりは、思考はいつも頭の中で話し続けていることを認識することです。

• 思考しないで感じている状態、それが目覚めのはじまりなのです。

• それはそんなに難しいことではありません。たとえば、サーフィンをしているとき、山登りをしているとき、あなたの思考はとまります。サーフィンをしながら自分の生活の問題を考え続けることは不可能です。だから、人々はサーフィンなどのスポーツを好んでするのです。

• サーフィンなどのスポーツをしているときは、過去や未来は問題ではなくなり、ただ今ここにいることだけがすべてになります。

• しかし、多くの人々は内容(contents)を生きようとしています。

• ある大学教授が禅僧に聞きました。「禅とはなんですか?」禅僧は答えずに、目の前にある茶碗にお茶を注ぎました。そして、お茶がこぼれても禅僧はお茶を注ぎ続けました。大学教授は尋ねました。「これが私の質問と関係があるのですか?」 禅僧は答えました。「あなたはこの茶碗のように知識や内容で頭の中がいっぱいになっています。それを空にしないかぎり禅を経験できる余地はありません。禅を探し求めないでください。禅を経験してください」

• 思考をストップさせてください、内容をとりはらってください、物事を識別することをやめてください。

• よく人は将来に目標を設定しますが、決して将来に到達することはできません。将来はいつまでたっても将来だからです(あなたの目の前にあるのはいつも「今」だけ)。

• 「思考がつくりあげている内容」というのは幻想でしかありません。

• 思考の中ではすべてが形をもちますし、エネルギーが形として存在しています。

• 人間の無限の可能性は形ではなく、それはすべての人間の中に存在しています。

• どうぞ、空間の意識を感じてください。今ここにいるようにしてください。大いなる意識はあなたに発見されることを待っています。

• 今、ここにある状態というのは赤ん坊の状態に似ています。赤ん坊は大人のような思考がないので物事を決め付けたりしません。赤ちゃんはいつもつねにここにあり、すべてを思考を通さずに直接体験しています。

• 「天国の王様」はつねにあなたの内にあるのです。

• 最近、こうした意識に目覚めることは過去数千年にくらべて非常に容易になってきています。それは人類の意識のエネルギーレベルが向上しているからです。

• 私たちの最初の課題は、時間をこえたところにある意識の領域を再発見すること。何かを識別したり、内容を見つけようとしたり、決め付けたりすることではありません。

• 無邪気に今ここにいてください。

• 「思考なしの状態」(mindless)でいてください。思考を決して信じないでください。

• 時間をこえた意識の領域にアクセスすることが人生で一番大切なこと。それが目覚め。それが可能になる瞬間は、さきほどのスポーツや、自然の中で識別することなしにただ自然を経験したり、瞑想をしたりするときに可能になるでしょう。時間をこえた意識の領域にアクセスすることは、ただここで起きるだけです。

• ところで、ここでいう意識とはなんでしょう。それはあなたです。あなたこそが意識なのです。人というのは意識ではありません。人は物体です。

• 科学者たちは神や意識を発見しようとしてもできません。それは肝心の自分を脇においているからです。

• 神とは、時間を越えた形のない純粋な意識の領域です。

• 神とは、まだ目の前に現れる前の(産まれる前の)領域です。

• 神は私たちの内にあります。

• 私たちは物事をとらえるときに、物体ばかりに目を向けますが、空間は無視しがちです。しかし、よく考えてください。物体は空間なしには存在しえません。物体と空間は切り離せないのです。

• 物体(形)は空間(形のないところ)から産まれてきました。そこに意識があります。神があります。

• あなたの中にある説明できない、時間をこえたエッセンスが意識なのです。

• 思考や過去や内容や識別、決めつけ、ひいては形を越えたところに目をむけてください。
• 人生に「降伏」してください。ありのままの今ここにある瞬間に「降伏」してください。

• 日常生活の中で、どんな形であなたの目の前に現れても、すべての存在すること(ISness)に「イエス!」といってください。

• あなたが今を否定することは人生を否定することと同じです。なぜならあなたの人生は今だからです。

• あなたが責任をとれるのは今だけです。

• パワフルな状態というのは、あなたが空間になることであり、完全に今ここにあることであり、どんなことにもイエスということです。

• 全てのものはすべてのものにつながっています。


July 31, 2010

[参考] ガンガジ(米人女性)

クリシュナムルティの女性バージョン ガンガジ gangaji

ガンガジ プロフィール

ガンガジとは、「ガンジス川(女性名詞)」の意味。
本名アントワネット・ロバートソン・ヴァーナー。

1942年米国テキサス州生まれ。ミシシッピ州で育つ。
1964年ミシシッピ大学卒業と同時に医師と結婚。一人の娘をもうける。
1972年30才でサンフランシスコに移り住み、アファーメーション(成功哲学やプラス思考)、瞑想、チャネリングから各種セミナーをやり、禅、ビパッサナー瞑想(上座部仏教の瞑想)、チベット仏教に自分の落ち着く場所を探す。
東洋医学にも興味を持ち、鍼灸師の免許も取得。
ハワイに移住してイーライ・ジャクスンベア Eli Jaxon-Bear と再婚。

表面上はうまく行っている人生に見えたが、内面の苦悩と疑問は穏やかならず、解決方法に万策尽きたと思った時、1990年、師にめぐり合うことを祈りインドに渡る。たまたまガンジス川で道に迷っていたラマナマハルシの在俗の高弟・シュリー・プンジャジ(パパジPapaji)にガンジス川河畔で出会う。
(プンジャジは後年、なぜその時道に迷ってガンジス川まで行ったのかわからない。ガンガジとの出会いのためだったとしか思えないと回想している)

ガンガジ

その瞬間真の自己に目覚め、それまでの一切の苦悩が終わる。
プンジャジから認められる。師はガンジス川での出会いにちなんでアントワネット・R・ヴァーナーにガンガジという女性名詞を与えた。

師であるプンジャジの依頼で彼について印度を回り、ガンガジは自分に起こった覚醒体験を話してまわる。その後アメリカに戻る。
プンジャジは昭和62年に没。
現在67才。米国西海岸に居住。

カリフォルニア州でリトリート、講演、TV出演などの活動を行う。
オレゴン州にサポート団体がある。

ラマナマハリシ→プンジャジ(Papaji)→ガンガジ
●シュリー・H・W・L・プンジャ=1913年10月13日、現在はパキスタンとなっているパンジャブ地方の小さな村で生まれた。6歳のときに3日間、真我の直接体験に没入。
1944年、31歳のとき、ラマナ・マハルシと出会い、その臨在のもとで覚醒を得る。
1966年に引退するまでさまざまな仕事に就き、家族を養い、一家の長としての務めを果たした。
やがて、インド北部の町ラクナウに腰を落ち着け、毎日サットサンをおこない、世界中から訪れてくる探究者たちに”尊敬するお父さん”という意味の「パパジ」の名で呼ばれるようになる。1997年9月6日、逝去。
本当はプンジャジ自身は出家をしたかったのだが、ラマナが家長としての任務を果たすべきだそれで獲得した真理がなくなるのではないからと在家で続けることをすすめたのである。事情が許さなかったこともあるが、アシュラムにはほとんどいることはなく、ラマナの遷化にも立ち会っていないし、それ以後もアシュラムに行かず、遠く離れた北インドでダルマを説いた。本物は師匠の遺徳にはあずからないというのは本当である。(見知らぬところで法を説いて人が集まればそれは彼の説くところが認められているということ)




有名な著書は『ポケットの中のダイアモンド』。この本の序文をエックハルトトールが書いている。(二人の関係はわからない)
48人中、45人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0 , 2007/5/4
By suho -
おそらくこの本を読んで、その指し示す感覚に深く沈潜できれば、 もう他のこの手の本を読む必要はないでしょう。
そのくらいシンプルでエッセンシャルな本。
巷に出回っている精神世界系の本が、いかに観念の域を出ていないかが 深く理解できます。
精神世界に何かしらの「ファンタジー」を求めている人には向かないでしょう。
とにかく「本質を知りたい」という真摯な想いのある人には
これ以上の本はないような気がします。


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ガンガジのことば

ガンガジの言葉

○真の自由への欲求を実現する唯一の方法は、それを実現するために「何もしない」 ことなのです。


○あなたは誰ですか? あなたは肉体ですか? 。
さまざまな指導者たちは、あなたとは輝く意識であり、光であり、真実であると言うでしょう。。
けれどもあなたは自分が誰であるか、自分で気づかなければなりません。そうでないと、誰が何を言っても、それはあなたが思い込んでいる自分という物語への追加にすぎません



○徹底的に死ぬ覚悟ができなければ、徹底的に生きることはできません。。
なぜなら、生まれ変わる、という希望は、まだ死の恐怖に根ざしているからです。



○まだ自分は悟るときではないとか、自分にはその価値がないとか、自分にはその準備ができていないとか、逆に、自分はすでに自分が何者であるかを知っているとかはみな、理性があなたを騙そうとしているにすぎません。


○あなたの本当の姿、それは意識です。感情でも思考でもありません。これらは現れては消える覆いに過ぎません。誕生し、しばらく存在し、そして死んでいきます。

意識は現れも消えもしません。それは今ここにあります、それは今以外の時を知りません。


○大人になるにつれ、私たちの知性は、「もし心を開いても安全なときがあるとしたら、それはいつなのか」を知るために充分な情報を集めようと一種の警戒過剰状態を生み出します。あなたの知性に情報を集めさせるのをやめさせましょう。条件付けられた思考はさらにその条件を強めます。あなたの知性をただその源に抱かせてあげましょう。


○あなたの自分につけた自分の定義は、あなた自身ではありません。それはただの思考です。



あなたの真実は思考されることはありません。なぜならそれは思考の源だからです。
それはあまりにもあなたに近いところにあるので、それが自分であるとあなたは信じられないのです。


○真実を知りたい、という願望は、どうすれば真実を得られるか、そのための障害物を排除できるかという頭の中の概念に変化しがちです。そして人は真実そのものよりもこの概念を崇拝し、信頼するのです。 
そして、真実について理性で最新の解釈を求めてはそれに頼って、堂々巡りをいつもしているのです。そういうことが習慣になってしまっています。


○もしもあなたが心の底から真実や神を求めるならば、あなたはそれらが既にここにあることに気付くはずです。 
それに気付かないのは条件付きでそれを求めているからなのです。本当の自分でありたいけれど、それはあくまで自分の望むように、条件に従った形で…と考えているのではありませんか?既にある、悟りについてのイメージを捨てましょう。


『ポケットの中のダイアモンド』より

正師(SatGuruサットグル)との出会い
私が師[シュリープンジャジ別名Papajiパパジ]に出会うまでに、様々な形で瞑想を行っていました。美、超越、真の知覚を体験した瞬間もありました。けれど、その下に横たわる、思考に伴う切望、「どうしたらそれが手に入るのか? どうしたらそれを持ち続けられるのか? その方法を見つけなくては」 という思いはまだそこにありました。パパジに出会ったとき、彼は私に止めるように言ったのです。私はパパジPapajiが私にくれた招待状を、そのままあなたに贈ります。今この瞬間、その場で止まってごらんなさい。あなたが、充足を与えてくれると思うもの、真実を与えてくれると思うものが何であれ、それを手に入れようという努力をすべて止めてごらんなさい。必要なのは、はんの一瞬、本当にそれを止めることだけです。

はとんどの人は、なかなかそうすることができません。なぜなら、すべてをストップする瞬間に近づくにつれ、とてつもない恐れが浮上するからです。「もしそれを止めたら、本当に止めてしまったら、私は後退し、努力と修練を重ねて私がこれまでに培った土台を失ってしまう。まだ完全には満足していないけれど、以前よりは満足している。生活も以前よりよくなったし、頭の中も前より落ち着いているし、まわりの状況も改善された。それを私はみな失ってしまうかもしれない」

私にとって、この「止めろ」という言葉を聞くのは非常な驚きでした。私は彼がある秘密の知識を与えてくれるものと信じていたのです。そして、彼はそれを与えてくれました。でもそれが秘密なのは、それがあまりにも当たり前のことだからです。少しも秘伝的ではありません。私は彼が私の耳に魔法の言葉を囁ささやいてくれるものと信じていました。そしてそれは本当でした。彼は 「止めなさい」 と言ったのです。あまりのシンプルさに私は腰を抜かしました。思考は停止し、その停止の中に、想像できないはどの充足感があったのです。私たちが充足感として想像するものは、苦しみや葛藤かっとうはより少なく、より多くの喜び、平安、感謝、愛に充ちたものです。でも真の充足とは想像するものではなく、気づくものなのです。

パパジは私に、あらゆる戦略、あらゆるテクニック、あらゆる手段を捨て、ただそこに居て、彼が差し出すものを受け取るように言いました。間もなく私はそれを理解しました。「この人は本気だ。私に新しいマントラを教えてくれる気も、新しい修練法、新しい信仰体系、礼拝、問答、宇宙観を教えてくれる気もない。

『すべてのものの意味』も、『何が起きるか』も、『なぜそうなったのか』も、教えてはくれないのだ」。パパジPapajiは私にそのすべてを頭から捨て去ってくれと言っていたのです。そのどれも、間違っていたわけではありません。ただ、私が作り上げた精神性の寄せ集めは、決して絶対的真理には適かなわなかったのです。

すべての聖典、経典、宗教的慣行は、真実から生まれ、真実を指し示しています。けれども、いずれ、あなたが自分自身の中に立ち戻らなくてはならない瞬間がやってきます。そしてそれは今この瞬間、あなたが何ものにも身を包まず、あなた自身についてあなたがこれまでに学んだことを忘れたこの瞬間にしか起こり得ないのです。





日本人ファンのブログより
http://32759099.at.webry.info/200903/article_4.html

コスモスの覚書
Gangaji 『ポケットの中のダイヤモンド』 より

作成日時 : 2009/03/29 21:31 »

ガンガジの『ポケットの中のダイヤモンド』を読みました。
とてもいい本でした。
この本の内容を消化するには、まだまだ何回も読む必要がありますが。

というか、消化できるるかどうかは疑問ですが(笑)

ガンガジが教えている道は、理解の道といった方がいいのでしょうか?
この道は、今を正しく理解することが全てで、瞑想とかその他のテクニックは一切使いません。
こういうアプローチは、自分が好きなアプローチです。

プンジャジの弟子なのに、銀髪(金髪?)のアメリカ人の女性というのは少しびっくりする組み合わせですが。

何箇所か本文から紹介しようと思ったのですが、一つだけでも結構長くなってしまったので一つにしておきます。

■「33 恐れと向き合う」より

凝り固まった苦しみのパターンはどれも、恐れという核心的な感情を避けようとすることから生まれますが、本当の問題は恐れではありません。 問題なのは、そしてそこから派生する混乱はすべて、恐れを本当に経験するのを避けるために発生する理性の活動です。

恐れと向き合うのは実はシンプルなことです。 あまりにもシンプルなので、その「方法」すらありません。 コツは、恐れと向き合うのを私たちが常に避けているということに気づくことです。 あまりにもシンプルなのでその「方法」すらありません。 コツは、恐れと向き合うのを私たちが常に避けているということに気づくことです。 こうして避けている中で、無自覚で、凝り固まった、習慣的な苦しみのパターンが構築されるのです。

あなたはどうやって恐れを避けているのでしょうか? 感覚を麻痺させているのでしょうか? 恐れの存在を否定していますか? それとも脚色していますか? 恐れに逆らっていますか? 絶え間なく独り言を言っていませんか? セックス、食べ物、お金、力、あるいは悟りを得ることなど、恐れを避ける方法として、将来にいいことがある、と常に夢想していませんか?

あなたは、たった今、恐れを避けるのを止める力があります。 それほど簡単なことです。 自分で自分についている嘘を止め、今ここにあるものと対峙するのです。 どんな感情も、物語を付随させずにそれと向き合うことで、あなたはあなたの真実と向き合うことができます。 さらに重要なのは、その真実はずっとそこにあったのだということにあなたが気づくことです。 恐れ、怒り、悲しみ、凝り固まった態度、絶望、虚無感、充足感、無知、そして悟り──それらすべては、あなたという存在の真実の中を通り過ぎるだけです。 あらゆる感情、あらゆる理性的思考はやってきては去っていきます。 けれどもあなたは常にここにいます。 あなたはこれまでずっとここにいたのです。 変化せず、輝きを放ち、純粋で、湧き起こるどんな恐れにも臆することなく。

もしあなたがたった一つ、恐れのない状態だけを望み、そのために恐れから逃げ出したり、恐れがそこにあるのを認めなかったりするとします。 すると、そこから逃げ出すものがみなあなたを悩ませ続けるのと同じく、恐れはあなたに取り憑いてあなたを放さないでしょう。 逆に、あなたが欲しいものを追いかければ、それはいつまでたってもちょっとだけ手の届かないところにあるものです。

これは、精神的な探求においても同じです。 神を求めて神を追いかければ、神はいつも手の届かないところにいるでしょう。 追いかけるのを止め、神というあらゆる概念を捨て去れば、あなたは神の生きた存在に包まれるのです。

あなたの人生における混乱は、あなたがあなたに取り憑いたものを避けようとしている、あるいはあなたが欲しいものを掴もうと追いかけている、そのどちらかの結果です。 そのことに完全に気づいた瞬間、すべての混乱は消え去ります。 どんなに複雑な状況の中でも、ただ明快であることは可能なのです。

・・・


そこそこボリュームにある本の中で、この部分をアップしたいと思った理由を書かせて頂きます。

長めに引用させていただきましたが、自分が本当に引用したかったのは実は一箇所だけでした。

その場所は

あなたの人生における混乱は、あなたがあなたに取り憑いたものを避けようとしている、あるいはあなたが欲しいものを掴もうと追いかけている、そのどちらかの結果です。

ここの所になります。



Maxi のひとり言(日本人女性 サンフランシスコ郊外在住)

プチプチ真我体験!? ガンガジとの出会い
http://maxit.blog97.fc2.com/blog-entry-19.html

思い出したけど、“真我体験 ”の最初の最初はこっちかな?

ガンガジ のテープ「Who are you?」を聞いた時、「これだ これこそ私が探し求めていたものだ 」と思わず叫んだ ほどでした。

それまで色んな本を読んだり、ヒーラー 、グル (アマチを含めて)等々色んな人に会ったりしたけど、全てがグルや神は偉大で私はいたらない存在 でしかない。「教え 」なり「瞑想法 」をやればはるか彼方のいつか、それこそ今からあと何千、何万回生まれ変わったら、あるいわそのチャンスがあるかもしれない というような、途方も無い時間が掛かるものだと感じてました。

だから、「真我を悟るのは一瞬だ 」、「瞑想法をやると、真我の周りをぐるぐる周るだけで、必要なし 」と言ったガンガジに魅了されました 。(長時間の瞑想は好きじゃないなぁ。足がしびれるし・・・。 )

初めてガンガジ のサットサン(講演会)に行った時、他のグル と同じく「秘密の瞑想法 」のようなものを教えてくれるのかと思っていたら、何にも無し! ただ質疑応答があるだけ。


ガンガジさん、という方をご存じですか?

ラマナ・マハルシさんの弟子H・W・L・プンジャジ(パパジPapaji)が、インドの川ガンガ(ガンジス川)にちなんで、本名アントワネット・ロバートソン・ヴァーナーに、ガンガジという名前を与えたそうです。

私はまだパパジPapajiの本は読んだことがないのですが、ラマナ・マハルシという存在のあり方にとても惹かれているので、彼の弟子たちについても興味をもっているところです。

今、ガンガジの「ポケットの中のダイヤモンド*徳間書店*ガンガジ著」を少しずつ読んでいるところなのですが、すごくわかりやすい!ところがいいと思いました♪

ミクシィ内にコミュもありますので、興味をお持ちの方は以下を参照してみてくださいませ♪

http://mixi.jp/view_community.pl?id=2056725

何も隠さず、真実から言葉を発しているというのが心に伝わってきます。私はどうしても簡単なことをむずかしく表現しがちなので、私にとって彼女は「シンプルさ」の師匠って感じがしました♪

ガンガジについては、シリーズにするつもりはありませんが、みなさまにお勧めしたい一冊ではありますので、「6.自分とは何か」のところをご紹介したいと思います。

********************************

6.自分とは何か 『ポケットの中のダイヤモンド』より

自分が本当に欲しいものは何なのか深く掘り下げて行くことは、あなたという存在の真実の姿を見つける手がかりになります。もしあなたが本当に求めているのがあなた自身の一番奥深いところにある核心を知ることだとしたら、「自分」とは何なのかについての思い込みを見直す必要があります。

従来の西洋心理学では、私たち一人ひとりを個人として表現するものはその人の性格であるとされています。けれども実際は、性格とは衣装や仮面のように、ごく表面的な簡単に替えることができるものなのです。あなたの性格を変化させたかったらいい本がたくさんありますし、ワークショップもいろいろあります。様々な教材も手に入ります。

性格の改善に努めたり性格を変えようとするのは少しも悪いことではありません。それが大いに役に立つこともあります。たとえば、大勢の人が一つの部屋に仲良く集まるためには、互いに対する節度と尊重を共有できる程度にその人たちが性格を調整できていれば助かります。これはみな性格の領域の話です。性格の改善に努めることは、性格“イコール”あなた自身であると信じこまない限り何の害もありません。あなたはすでに、どんなに性格をよくすることに努めても、そしてついに素晴らしい性格を手に入れたとしても、あなた自身の最も根本的な部分が満足することはないということに気づいているかもしれません。

一人ひとりの個人、ほかと区別された「自我」としての基本的な自己認識は、性格よりも根源的なものです。「自我」とはいったい何でしょうか? 自我を直接体験することは可能でしょうか? 私たちが幸せになるためには、自我は排除、あるいは補強する必要があるのでしょうか?

自我を意味するegoはラテン語で「私」を意味します。実際にはそれは、「私」という思考であり、「私とはこの身体である」という感覚と対をなしています。そしてそこを出発点として、限りなく複雑に拡張していくのです。

人間という肉体を持って生きる私たちには、自分を独立した自我として認識する自然の力が備わっています。それはものすごい能力であり、その能力には何の問題もありません。進化順応の結果であるその素晴らしい力によって、人間はあらゆる局面でほかの生物よりも有利な立場に立ったのです。けれども自我はまた、自己嫌悪、自己虐待、利己心、そして自己超越の原因でもあります。もし私たち一人ひとりの身体/知性/自我が私たちの最終的な真実だと信じるなら、それに続いて引き起こされるのは甚大な、そして不必要な苦しみです。

自分とは自分の肉体に限定されている、と信じて生きていると、意識的にも無意識のうちにも、その肉体を保持することが最優先事項になります。肉体の安全を絶対に保証できるものはない、という認識を持つにつれ、大いなる恐れが生まれます。

遺伝、環境、事故など、肉体は明らかに様々な危険にさらされています。そして最終的にはその機能が使い果たされるのは避けられません。当然、肉体を保持し、安全に保つための試みはどれも、隠れる、攻撃する、といった自己防衛戦略を生みます。そしてこうした戦略は、好戦的性格あるいは服従的性格、また社会的、性的な対人技術へとつながります。そのどれもが、「私とはこの肉体である」という考えを擁護するための方法です。これが自我です。

肉体の保存が最優先課題であるとき、私たちの住む世界は恐れに充ち、身構えたものになります。ほかの人、部族、国を犠牲にして、「私」「私の部族」「私の国」を最優先させるという防衛的な行動は、多くの苦しみを生みだします。こうやって戦争が始まるのです。戦いが兄弟・姉妹の間のものであれ、親子間、夫婦間、あるいは部族、国家間のものであれ、それはみな、他人とは本質的に隔てられた特定の存在が自分である、という非常に限られた自己認識に根ざしています。

自分の肉体、すべての人の肉体、あらゆるものの肉体は死を迎える、という現実が明らかになる瞬間がやってきます。多くの社会、中でも西欧社会はこの事実を隠そうとしますが、肉体の死は最終的に否定できません。意識が覚醒したとき、それまで恐れ、否定し、そこから逃げようとして続けてきた死という悪魔が無意識から呼び起こされ、対峙させられます。そのときあなたは、永久不滅の、意識という否定し得ない存在、すなわちあなたという存在の真実の姿に気づくことができるのです。このことに気づいたとき、自我が現実であるという思い込みは終わりを迎え、代わりに決して終わることのないものが姿を現します。あなたがあなたの肉体以上のものであることは明白です。実はあなたとは、肉体に吹き込まれている生命そのものなのです。

最終的には、自我とは思考にすぎない、ということがわかります。純粋な意識に限界を与えるものは何一つありません。あなたがあなたの真実の姿に気づくのを阻む唯一のものこそが、この「私とはこの肉体である」という自我にのっとった思い込みなのです。この思い込みを持ち続けるためには、あなたが自分はこういう人間だと抱いているイメージに沿った、絶え間のない思考活動が必要です。

この思考活動を止め、代わりに「自分」という中心の思考の内側に意識を向けたとき、あなたは、本質的にどんな思考も防衛の必要性も存在しない、無限の、純粋な意識を発見します。それがわかったとき、自我とは、夢やトランス状態が幻想にすぎないのと同じように、ただの幻想にすぎないことを理解するでしょう。

それはあたかも現実であるかのように見え、感じ、体験されるかもしれません。でもそれは自我の実体を深く追求したことがなかったからです。この追求が自己探求です。幻想、この場合は最も本質的な幻想に率直に疑問を投げかけることこそが、真実をじかに体験することへの手がかりです。

追求すると、個々の「私」とは夢にすぎないことがわかります。甘い夢でも悪夢でも、夢から目覚めたとき、あなたはそれがただの夢だったことがわかります。もちろん、夢や幻想に問題があるわけではありません。それが問題になるのは、夢、特に「私」という思考が現実として受け入れられてしまう場合です。

人は誰しも幻想に騙された経験を持っています。砂漠の蜃気楼や、地平線が世界の果てだと思うように。幻想は、それに問いが投げかけられない限り、非常な力を持っています。真の探究とは、何が真実で何が幻想か、何が永遠で何が一時的なものかを明らかにすることを目的としています。
『ポケットの中のダイヤモンド』p.60

精神的な修行
私が出会う人の多くが、真の自己実現を真剣に求めています。彼らは私に、何をすればいいのか、どうすればそれが可能なのか、と尋ねます。逆説的ですが、この、真の自由への欲求を実現する唯一の方法は、それを実現するために「何もしない」 ことなのです。
マントラを唱える、ヴィジュアライゼーション(視覚化)をする、僻伏ふふくを行う、または無私の奉仕を行う、といった修行の方法があります。これらはみな、頭の働きを静めて、真の充足を得るには何が必要か、ということばかりを追い求めないようにするために考えられたものです。こうした修行は、理性の持つ、集中する力、また身を委ねる力を磨くには最適です。これらの精神修行法が、私たちの先人である偉大な師からの贈り物であり、私たちの役に立ったことを認め、感謝しましょう。けれども同時に、私たちの存在の真実の姿は今、ここにあり、私たちの修練はすべて、もうすでにここにあるものを探すための方法であったこと、自分自身の心に帰る道の障害を取り除くためのものであったことにもまた、気づいてください。
問題は、どこかへ行こうとする試みはみな、結局のところ、あなたはまだそこに到達していない、と示唆しさしているということです。実際、どこかへ到達するためにあなたがするどんな行為も、常にそこに完全に実現しているものをあなたが最も深いところで認識するのを邪魔しているのです。

今、この瞬間、努力しなくてもそこにあるものの存在に気づいてごらんなさい。これは、最も簡単で、最もシンプルで、そして最も自明の真理です。このことが長年にわたり知られずにきたのは、それがあまりにもシンプルですぐにも手に入るものだからです。

このシンプルさに私たちはとまどいます。なぜなら私たちは子供の頃から、何かを達成するためには、まずそのために必要なステップを覚え、そしてそれを練習しなくてはいけない、と教えられるからです。この方法が効果的なものはたくさんあります。理性は素晴らしい学習ツールです。けれども、自己実現、そして最も深いインスピレーションや創造性は、理性の源から直接与えられます。気づきとは、何をしたからと言って得られるものではなく、理性をその源に委ねることで与えられるのです。

もしも精神的な修行が理性の活動を止めるのに役立つなら、それはあなたの強い味方です。でももしそれによってあなたが、自分はまだここにはないと信じている何かを得るために、ある特定の修練を行っているある特定の人間だ、という思い込みを強めるように作用するなら、それは邪魔になります。その結果あなたは自分自身のまわりをぐるぐる回り続け、あなた自身の中へと理解を深めていくことができないでしょう。

瞑想という言葉は人にとって様々な意味を持っています。呼吸に意識を集中することを意味する場合もあれば、あるイメージ、またははかのいろいろなものに意識を集中させる人もいます。けれども、世界中はとんどの人が、常に、「私とはこの肉体であり、これらの思考であり、感情である」 という瞑想に耽っているのです。合間合間に正式な瞑摘心を行うこともありますが、それが終わるとまた、「これが私、私とはこの肉体、私はこれが欲しい、私はこれを手に入れなくてはいけない、私はこれを持っていない」延々と続く、何よりも強固な習慣に戻っていくのです。これはいわば瞑想です! そしてそれは苦しみの瞑想です。それはあまりにも広く行き渡っているがために、見過ごされており、人はそれを一つの習慣ではなく、現実だと思っているのです。

恋人の胸に抱かれた瞬間、美しい音楽の音色、朝日が昇るときの色彩—-お馴染みの瞑想が停止する素晴らしい瞬間があります。「自分」を演じるのを止め、ただ存在だけが在る瞬間です。そしてこのシンプルな存在の中に、平安、気づき、明瞭さ、自然さがあります。ただ在ること、それは容易で、何の努力も要りません。けれども私たちは「私」という瞑想が現実だと強く信じ込んでいるので、またすぐにいつもの習慣が始まってしまいます。「私の身体はこれ、これが私。あなたの身体はそれ、それがあなた。私の文化はこれで、あなたの文化はそれ。私はこれを信じるし、あなたはそれを信じる。あなたは私の敵。あなたは私の味方。あなたは私に何かを求め、私はあなたに何かを求める・・・・・」そうやって延々と続きます。
『ポケットの中のダイアモンド』pp.143ff.





あなたはあなたが自分で思っている人とは違う
世界はあなたが思っている通りのものではありません。あなたはあなたが自分でこうだと思っている人とは違います。私はあなたが私だと思っている人ではありません。世界、あなた自身、そして私についてのあなたの考えは、あなたの知覚に基づいています。それが外的な知覚であろうと内的な知覚であろうと、そこには限界があります。それに気づけば、知覚も想像も捉とらえることのできない、それでいてすべてに浸みわたっているあなたという存在の真実への招待状を受け取るでしょう。
あなたが自分だと思っている人、あるいは幸せになるために必要だと思っているもの、それらについて頭で考えを巡らすのをすべて止やめたとき、知覚に与えられた権威、理性の構図にひびが入ります。その割れ目から中に入ってみてください。その穴から中に入るのです。そうすると、理性は最新の自己定義でいっぱいではなくなります。その瞬間、そこにあるのはただ静寂です。そしてその静寂の中で、絶対的な充足を見つけることが可能です。それは真実のあなたなのです。





あなたは誰?
あなたが自分に問うことのできる何よりも大切な問いは、私は誰? というものです。ある意味ではこれは、あなたの生涯のあらゆる段階を通していつも、暗黙のうちにあなたが問い続けている問いでもあります。自分一人でする行為であろうと集団でする行為であろうと、すべての行動の根底にあるのは、自己定義への欲求です。通常あなたはこの問いに対する肯定的な答えを求め、否定的な答えは避けようとします。ひとたびこの間いがはっきりと自覚されたものになると、この間いの持つパワーと勢いが真実の答えの探求を導きます。その答えには終わりがなく、生き生きとして、そして深まり続ける洞察に満ちているのです。

もちろんあなたが誰であるかを人はあなたに教えようとします。まず初めは両親によって、あなたには特定の名前と特定の性別が与えられ、家族の中で子供という特定の役を演じます。学校に上がっても条件付けは続きます。できる生徒か、できない生徒か、よい人か、悪い人か、能力があるか、ないか。あなたは成功も失敗も経験します。人生の早い時期か遅い時期かはわかりませんが、ある段階をすぎるとあなたは、その定義がどういうものであれ、あなたという存在に自分が満足できないことに気づきます。

ただ便宜的に答えるのではなく、この間いへの本当の答えを見つけない限り、あなたはそれを知ることに飢え続けるでしょう。なぜなら、ほかの人があなたをどのように定義したとしても、そしてそれが善意からのものでもそうでなくても、また、あなた自身が自分をどんなふうに定義したとしても、永続的な確信を与えてくれる定義などないからです。

どんな答えもこの間いに満足に答えてはくれなかった、ということに気づく、それが決定的に重要な瞬間です。その瞬間のことをしばしば、魂の成熟、魂が大人になった瞬間と呼びます。そのときあなたは自覚的に、自分が本当は誰なのかを追求することができるのです。

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